西後知春の公式サイトをご覧頂きありがとうございます。
写真家の西後知春と申します。北海道苫小牧市出身。元数学教師。教員、舞台女優を経て、現在は写真家兼映像クリエイターとして活動中。45歳の時に、東京藝術⼤学大学院に合格し、卒業後、本格的に映像制作の道を歩み始めました。
人生を彩るドキュメンタリーを作るをミッションに、映像制作、編集、写真撮影を主な活動としています。
教師だった私がなぜ映像制作の道を進んだのか。私のこれまでの略歴を紹介します。
年表
高校~大学時代(数学科への進学と挫折、演劇との出会い)
高校 2 年生の時に、深夜番組「皆殺しの数学」を見て、数学が面白くなる。
私には、もう、数学しかない。
17歳のうちからそんな勘違いをして、大学は数学科に行こうと決意。親の要望もあり、国公立大学に絞り、隣の青森県にある弘前大学に進学。
しかし、念願かなって入った数学科で数学がまったくわからない、面白くないということに気がつく。
数学がわからない。
あれ? 数字が出てこない。
文字ばかり。
なんの話をしているの ?
数学に挫折を感じ始めていたときに、演劇と出会う。
高校の時はちょっとヤバい人の集まりにしか見えなかったけれども、気になっていた演劇。思い切って大学で入部する。考えてみれば小学生の頃の学芸会は演劇やりたかったのに出来なかった。自分の中の置き忘れていた気持ちに気がついた瞬間だった。
練習はきつかった。夜 6 時から夜中2時くらいまで。続けているうちに自分も役者として舞台に立つことになった。
あ、笑ってる。
人が笑っているのを見るの、面白いかも。そんな状態が 4 年まで続く。そして、弘前劇場という社会人の人たちがやっている演劇集団にもこの頃はいるようになっていた。
北海道私立教員時代(教員怒濤の教員生活。演劇部の顧問になる)
親の勧めもあり、北海道の私立高校に就職。教員生活を開始する。
このころは毎日が戦いだった。でも、毎日ナメられる。
「ふざけんなこのやろー!」っと何度となく生徒に言った。
もう、生徒と言い合いだった。
何度となく、「出てけー(教室から)」と言った。
「ダメな教員だよ」と心の中では力不足を痛感していた。
そして、私はまたしても演劇にのめり込んでいく。
演劇部の顧問にもなる。
大会に出るけれども、なかなか勝ち上がれない。
もっとちゃんと舞台装置を作ればいいのか。試行錯誤の日々。
女子 4 人のお芝居なのに、めちゃくちゃ大道具が多いお芝居も作った。
なんとか 3 回目で全道大会には行けた。
そして自分自身も小さい芝居小屋を持つ劇団で舞台に立ち続けていた。
しかし、勤務する私立高校のあまりの激務に身体を壊したことをきっかけに退職。
激務がきっかけで当時付き合っていた恋人と別れたこともあり、私は、演劇と結婚だと決意した。
公立学校教員時代 (演劇から映像の世界との出会い)
私立高校の教員を辞めたあとは、採用試験を受けて北海道の公立学校の教員へ。
転勤を経て、北海道の函館市ちかくの学校に赴任。
ここで放送部の顧問になった。この学校は全国大会常連校。私は朗読、アナウンス、ナレーションの指導を担当した。
その頃から、創作ドラマを制作している生徒たちのやり方をよく見るようになる。
ただただ、隣で見ていた。
教えることなんてなかった。
でも、生徒たちは一人でずっと編集するよりも何人かでやったほうが良いみたいだったし。
私はどのようにソフトを使ってどのように映像を作っているのかをただただ見ているだけだった。
そのことが私にとっての映像制作のノウハウを学ぶきっかけになった。
しかし、この頃にはまだ映像の活動に興味はなかった。
演劇がまたやりたいと、北海道の教員を退職。
ツテを頼って青森に再び戻り、工業高校に常勤講師として働くことになった。
そこでも放送部の副顧問になった。
全国大会常連校で。月の残業が130時間を越えるほど、部活動にどっぷりの生活。
正直、具合が悪くなるほど朝から晩まで部活に関わっていた。
でも、そこで放送のノウハウをまたしても吸収する。
そこの学校は企画書からきちんと映像を作っていく学校だった。
もちろん、絵コンテもきちんと起こしていく。
その頃から私自身も映像作りを始めていた。
その後、教師の仕事は、常勤講師なのに毎年学校が変わる状況が続いた。
⻘森県では、教員は続けられない、東京へ行こう。
この頃から私は演劇よりも映像作りの方が面白くなってきてしまっていた。
その頃入っていた劇団に退団する事を伝える。
そして、映像作りにハマっていくことになる。
映画美学校時代 ( 東京で映像制作の日々)
東京都の教員採用試験に合格。
42歳の頃、上京する。
中高区分だったが、中学校での採用となった。
放送部の顧問を担当していたけれど、⾃分で映像が作りたいという思いが沸々沸いて出てきた。秋開始の映画美学校に⼊る。
映画美学校での授業は⾯⽩かった。 授業の後、終電ギリギリまで飲んで。 ⾛って電⾞に乗って帰る。 東京ってこんなに楽しい場所だったんだと気付く。
期限ギリギリだけれども、毎回課題は出していった。
作るのは⾯⽩い。 でも、他の⼈に⽐べるとまだまだ⾊々と⾜りない。
物語の構成だったり、絵作りだったり、セリフだったり。
映画美学校では初等科、⾼等科に⾏った。
学校では、再び演劇部の顧問になる。
畑澤聖悟作の「修学旅⾏」を上演した。
その頃から、私の演出⽅法は⽬に⾒えて変えていった。
⾃分の理想の演技を⽣徒にやらせるのではなく、次の⼈のセリフを考えて、このセリフが⾔いやすいようにちょっと変えてみようなど。 ⾃分の演劇を信⽤せずに⽣徒の演技に任せていく。 遠慮をそぎに削ぎ落としていくという演出⽅法に変わっていった。
そして、東京の教員になって3 年⽬に初めてNHK杯でのラジオ番組とテレビ番組を製作を指導した。
1 年⽣の頃からの付き合いのある3年生との制。なんとなく⼈となりがお互いわかっている。 企画をどうするか、構成をどうするかなど⾊々と話し合って。 もう、棄権する?という状況にもなりつつも完成した。 初出場なのに、全国⼤会に出場できて⽣徒たちはとても喜んでいた。 私? いや、当然の結果でしょって思っていた。
周りの⼈には⾔いませんでしたけれどもね。
ちょっと対策練れば、全国⼤会なんて軽いよねって。
45歳からのライフシフト!東京藝術⼤学から本格的に映像の道へ
映画美学校の⾼等科の課程も終わってしまった。
寂しい。 また、映画を作る仲間が欲しい。
あ、そういえば映画美学校から藝⼤⾏く⼈、多いよな、と⼤学院を調べまくる。 そこで調べて東京藝術⼤学と⽴教⼤学の⼤学院を受けることに決めた。私は編集領域を受験して合格した。
私は45歳で教員を辞めて、東京藝術⼤学の大学院生になった。
⼤学院は⼤変だった。
⾦銭⾯でも。コロナでも。
実習はコロナの影響で⼀つなくなった。
でも、やっぱり⼀緒に作るって⾯⽩い。
⾊々⼤変だったことも多かったけれども、作った映画はどれも満⾜できるものだった。
⼀つだけ、後悔がある。
課題だったドキュメンタリー映画をコロナの緊急事態宣⾔が発令されたことにより作れなかった。
それはこれからの活動の中で制作していこうと考えている。
誰かの人生を彩るようなドキュメンタリーを作る。それが私の活動のミッションになった。